明日へ
楕円形の窓。次から次へと建物が流れていく
言葉じゃ表せない想いを胸にしまい一人帰路につく
人が人にしてあげられることなんて、結局ないのかもしれないけど、
それでも「何かしてあげられたんじゃないか」と思ってしまう
元気、勇気、希望、笑顔…
明日を生きる活力を与えられたら幸せだな。
そう思ってサッカーを続けてきた。生きてきた。
まだまだだな〜
そう痛感した。
ネガティブでも落ち込んでもない。
むしろやらなきゃってね。もっともっと。
誰かの分まで。
おこがましいかもしれないけど、俺に背負わせてくれ。
背負ってるものが多ければ多いほど、俺は頑張れると思うんだ。
〜明日を生きる活力を〜
家族、そして友人
お世話になった人たち。関わったことがある人たち。見たことあるなーって人。横でビール飲んでるおっちゃん。
より多くより広く。
BADニュースよりも、日本が元気になるGOODニュースを
なんて思った木曜日の夜でした
でっかくなりたい!
「後輩から寛生くんブログ更新しないんですか。」と唐突に言われた。まさか読んでるとは思ってなかったから、内心かなり喜んだ。
このブログを通して、少ないけれど感想や意見を頂いている。「次のブログが読みたい」そう催促されることほど幸せなことはない。
ブログを書き始めて1年以上が経過したが、方向性は未だ定まらず。これでいいのかと思いながら、慣れないキーボードと向き合う。
最近の自分は気持ちの浮き沈みが大きいと感じる。
小さなことに過剰に反応することがあり、「俺こんなんだっけ」と自分が嫌になる時すらある。
でも決まって言い聞かせる。「これが自分なんだ、目を背けるなと。」
寮生活は、家族ではない人と一緒に生活する。
即ち、それぞれ異なる環境で育ち、価値観を持ち、考え方をする人達と生活を共にする。
この経験がどれだけ貴重か。そして自分をどれだけ成長させてくれているかは計り知れない。
自分が良ければいい。一度思った事は間違ってても曲げない。自分がやりたいことはやる。そんな思いやりもくそもなかった頑固でわがままな自分にとってこの環境は最高に成長できる。そう感じている。また、恥ずかしながら自分で成長したと感じることがある。
うまくいってない時、良い状態じゃない時、嫌なことがあった時、気持ちが沈んでる時に人の本性が見える。
そこで自分の弱さが出たら、人のせいにしたら、それが本当の自分。
その事実から背を向けずに、弱さを認め、改善していくことが大きな一歩となる。
完璧な人間なんていない。だからこそ思いやりの心をもって。人の立場になって考えられる人になろう。
何が言いたいのかわからんくなってきたのでこの辺までで。
ただ、気持ちが沈んでる時が本当に重要!
ポジティブに自分らしく!!
光を求めて
夜、自転車を漕いでいるとなぜか蝉の声が聞こえる一本の木があった。周りの木は静まりかえっている。蝉の声がする木には電灯が当たっていた。
俺はこいつらすごいなと思った。
なぜなら、夜になって陽が落ちても、光を探し見つけ出し、ほかのやつらが寝てる間も子孫を残すために鳴き続けているから。
周りからは、馬鹿だな、意味ないなって思われるかもしれない。
けど俺はそういう生き方のが好きだし、尊敬できる。
周りがやっていないことをひたむきにやる力。
無駄だと思われても自分を信じぬき継続する力。
成功者は大体変わっている。
その蝉が子孫を残すことができたかはわからないけど、きっとべっぴんさんを捕まえたんだろうな〜
努力は必ず実る。
それを大阪で証明してくれた仲間たち。
実らなかったのであれば、努力が足りてなかった。ただそれだけのこと。
よし、夏も終わったことだし、残りのシーズンを全力で。
そう、夜中に光を求めて鳴く蝉のように🤙
ご拝読ありがとうございました!!!
しょーもないことに疑問を。
雨が続き、気持ちが乗らない日も多いような気がする。
梅雨が過ぎれば、あの蒸し暑い夏がやってくると思うと、嬉しい気持ちもなんか嫌な気持ちも交差している。
皆さんどうぞ最高な夏を。
あなたはなんのためにサッカーをしているのか。
以前参加した講演会の時に投げかけられたお題である。そんなこと考えたこともなく、パッと思いつくこともなく、難しいお題だなーなんて考えていた。
「なんのために」=「目的」
目的を明確にすることは、何を取り組むにしても大事なことである。
にも関わらず、なんのためにサッカーをするのかは考えたことがない。
サッカーが生活の中に当たり前にあって、感覚的には「なんのために呼吸をするのか」って聞かれているようなものだった。
でも、この当たり前の感覚はまずいなって思ったし、目的を明確にすることによって見える景色が変わってくるだろうっていう感覚もあった。
最近は「なんのために」って考えることが多く、目的を明確にして行動することの訓練をしている。もちろんサッカーのことも考えているけど、目的を探し始めたらたくさんあって、これって奴が出ない壁にぶち当たってる。いつかこれだって目的が明確になった時、きっと素晴らしい景色が見えるんだろうな、なんて妄想しながら...
ぜひこのブログを読んだ人は1個でもいいから、今やってることの目的ってなんだろうって考えてみてほしい。表面的だけではなく、深く深く。
日常的にやっていることから、その行動の目的を考えながら生活してみてほしい。意識から何から変わるし、何より毎日毎日が楽しくなるはず。
そう!しょーもないことに疑問を。
ブレずに、真っ直ぐに。
久しぶりの投稿。
この投稿をするのに随分と時間を費やした。
自分の伝えたいことを文章化して伝えることは本当に難しい。
頼む、伝わってくれ俺の気持ち。そして、活かされろこの文章。
他己評価と自己評価のどちらを大切にしていますか。
サッカーをやっている人にこの質問をすれば、誰もが「他己評価だ」と答えるのではないだろうか。私はそう答える。大切なのは間違えなく他己評価である。
というのも、サッカー界は他己評価で成り立っていて、サッカー以外のスポーツ界やビジネス界を見渡しても大体は他己評価で成り立っている。
サッカーで言えば、試合に出る11人に選ばれるのも、その選手たちを選ぶ監督になるのも、プロになるのも、大学に入るのも、すべて他己評価である。
ビジネス界でも企業に入る為には、面接をして人事部のお偉いさんに評価されないと入れない。これも他己評価である。
ということは、この社会において、他己評価とは絶対的なもので、それによって自分の進路が決定することさえある。だから、人は他己評価を気にするし、上げようとする。
他己評価が大切であることは、理解した。
しかし最近の私は、他己評価ではなく、自己評価を満足度・納得度の基準にしている。
今までは、他己評価によく頭を持っていかれ過ぎていた。
ではなぜ、私が自己評価を満足度の基準に変えたのかを話したいと思う。
大学に進学し、自分と向き合う時間が増え、他己評価を満足度の軸にしてしまうと自分がブレてしまうことに気がついた。
例えば、自分的には試合のパフォーマンスが悪かったと感じている。しかし、コーチ・戦友の評価は良い時がある。
つまり、自己評価はダメだったけど他己評価はよかった場合だ。
他己評価を満足度の基準にしていると、自分では良くないと感じている試合に対して、他人からは良く見えていることに焦点を当てて満足する。自分がダメだと思った部分に目を向けなくなってしまう。
自分が自分に対して思っている評価(自己評価)と他人が自分に対して思っている評価(他己評価)のギャップが多かれ少なかれ生じている。
もちろん、そのギャップがなければないほどいいとは思うが、そう簡単なものではない。
他人の評価だけを受け入れて、その評価を自分の満足度の軸にしてしまうと、自分の満足度・納得度が人によって変わってしまうことになる。
それに気がついて、私は自己評価を満足度・納得度の基準に変えた。
自分の満足度の軸を他人からの評価ではなく自分の評価に設定する。
もちろん自分に甘い人間やモチベーションの低い人間には適していないが、成長したいと常に考え、試行錯誤している人間には、ぜひこの設定をお勧めしたい。
最初にも話したけど、大切なのは確実に他己評価である。
それを勝ち取らなければ試合には出られない。上には上がれない。
そこから目を背けるわけではなく、自分が満足する納得することに関しては、自己評価を基準にする。そうすれば基準はブレずに、周りから左右されない。
そうやって、1日1日自分が納得する日々を送って行こうと思う。
強くならなくてもいいんだよ。
新しい部屋に移動して、いよいよ新シーズンが始まろうとしていることを再認識する。
シーズンが始まることを考えるだけで、左腕の時計の心拍数は上がっていく。
高揚感、武者震い、不安、緊張感...
いろんな思いがあり、まとまらずごちゃごちゃしている。
整理はつかない。むしろつけない方がいいと思っている。
最近、自分の甘さを痛感する。自分って弱い人間だなって思う。
楽な方へ、楽しい方へと向かって行ってしまう。
やろうと決めていた事もいつの間にかできなくなっている。
でもこの時期に再確認できてよかったと、ポジティブに捉えている。
しかも、私は弱い自分を、きついことから逃げようとする自分を奮い立たせる方法を既に知っている。
その方法は、家族・友人、お世話になった人たちの顔を思い浮かべる事。
どんなにきつくても、その人たちをイメージすれば力が出る。というか、やらなきゃいけないという衝動に駆られる。
幸いにも、私は誰かのために頑張ろうと思う、「誰か」の数が多く、それぞれ強くイメージすることができる。
強くなることに越したことはないけど、そう簡単なことじゃない。
だから別に強くなる必要はないんじゃないかな。
自分の弱さを知り、認め、それを克服する方法を作る。
強くなるんじゃなくて、弱さが出た時の対処法を作っておく、知っておく。
そうやって壁を超えていく。
克服できなかった時の後悔、やるせない気持ちを忘れない事。それが一番大事。
同部屋の友人が眠りにつき、静かに自分を見つめる。
プライドの高い自分にとって、弱さは見せたくないし、かっこ悪いものだと思っている。
でも、きっと弱さを見せられるのは強さだと思う。
逆にかっこよく思えてきた。
だからって、もう弱さは見せないよ。
さあシーズン開始まで、冬休みに貯めておいた「誰か」の残像をフル活用して、前へ進め。
目標は人に言うな
あけましておめでとうございます。
先ほど、友人に「ブログサボってね?」と突っ込まれ、しばらく更新を怠っていたと反省しております。ただ、締め切りに追われ、ブログを書かなくてはいけないとは思いたくないので、今年もゆるーく書いていきたいと思っています。どうぞ、ゆるーくお付き合い下さい。宜しくお願いします。
さて、新年ということで『今年の目標』は決めましたか。
目標を決めたら、皆さんはどうしていますか。心に止めておく、新調した手帳に書く、家族・友人にいう...etc
私は手帳に書いて、チラ見せするタイプですかね。
YouTubeでTEDを見ていて、ちょうど目標に関する面白い発表があったので、紹介したいと思います。目標を決めたら、するべきことがあるのですが、それは、
「目標を人に言わない」
ということらしいです。
この発表では、目標を人に言ってしまうと、その目標に一歩近づいたと思ってしまい、実現する可能性を下げてしまうという研究結果が出ていました。人にいうことは気持ち良さが発生するそうです。
私は目標を人にいうことによって、責任感が生まれ、現実味が帯びて、もっと頑張れるんじゃないかなっと思っていました。確かに、人にいうことで責任感は生まれるかもしれませんが、目標をいうことに少し誇らしさというか、かっこよさ・気持ちよさ、なんてものを感じていたように思います。
今まで、人に言ったほうがいいと思っていた自分からしてみれば、真逆の発想で、まだまだ知らないことだらけだなと痛感しました。
とは言っても、人それぞれ違うと思うので、言った方が頑張れる人もいると思います。どちらかというと、自分は言った方が頑張れるタイプの人間じゃないかなって思ってます。
が、せっかく学べたことなので、今年は言わない方向で行こうと思ってます。
皆さんも、「今年の目標」を人に言わずに、一年頑張ってみるってのもありだと思います。ぜひ、試してみてください。
ありがとうございました✌🏻